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僕のブログ一号

カメラとか、写真とか。

なぜ写真を撮るのか、そしてなぜ撮った写真を見せるのか

見る人を感動させる写真を撮りたいのか、自分が感動した瞬間を写真に撮りたいのか。

この二つの違いは思った以上に大きい。

撮影者のその時の気持ちと、誰かの写真を見る時の気持ちは必ずしも一致しない。
どんなにシャッターを切る瞬間に気持ちを乗っけたとしても、受け取る側はそれとはほぼ無関係の気持ちを抱く、もしくは全く感動を与えないことすらあり得るからだ。

見る人を感動させる写真を撮りたいのなら

では、どうやって感動させる写真を撮るのか。

その方法は、写真をみる側、感動を伝えられる側の視点で写真を撮ることだ。
どうせ感動が伝わらない、もしくは変化して伝わるのなら、その変化した感動を想定して、その感動を最大化するような写真を撮ればいい。

つまり、受け手のニーズを考えるということだ。

これにより写真に写った「気持ち」はテンプレート化し感情資源として目的別にカテゴライズする事が出来る。

カテゴライズされた写真はそれだけで道具としてとても扱いやすいものになる。
家に飾るなら「風景写真」を、新聞に載せるなら「報道写真」を、広告に載せるなら「人物写真」を、キュレーションサイトに載せるなら「生活写真」を。
目的別に需要がわかれるに連れ、それに応えるようにより「美しい」風景写真、より「鮮烈な」報道写真、より「きれいな」人物、より「目新しい」生活、の写真が供給される。
この需要と供給の関係によって写真の価値基準というのが決定されていく。
これは別に悪いことだとは思っていない。
実際広告なり新聞なりを見た人はその写真によって、写真がないときよりも多くの情報を受ける事が出来るのだから。

だから誰かに感動してもらいたいなら、自分の感動した瞬間にシャッターを切るよりも、どんな写真なら一番効果的に感動させられるのかを事前に調査し、それぞれの分野において良いとされる写真を撮るのが結果にコミットする一番の方法だろう。

自分が感動した瞬間を写真に撮りたいのなら

感動した瞬間の写真を撮りたいのなら、写真を撮る瞬間の気持ちを追いかけ続ければいい。
その気持ちを誰かと共有したくなる事もあるだろう。
いつか誰かに伝わるかもしれないし、伝わらないかもしれない。

「伝わった」と自分と相手の間で共通認識出来さえすれば、それでいいのかもしれない。
感動というのはほとんど伝える側と伝わる側の共犯関係によって成り立っていると言ってもいい。*1

でも、そのせいでこの感動による関係というのはとても恣意的で、はっきりとした基準がない。*2
だからこそ多くの人に見てもらう必要がある。数打ちゃ当たる戦法だ。

では、どうやって多くの人に見てもらうのか?

一つのポイントはインターネットを使うことだろう。
インターネットを使うことで現実とは比べものにならないほど情報を拡散させることが出来る。

またインターネットを使う上で大切なことがあるはずだ。

それはやはりどれだけ広くアピール出来るか、だ。
いくらインターネットに拡散力があるとしても、何もせずただ写真だけアップロードしていては広大なネット社会の海に沈んでしまうだろう。
それを避けるためには兎に角多くの人に自分の存在をアピールする必要がある。
たとえばSNSでフォローしたり、ブログにコメントしたり、写真共有サイトで相手の写真にいいねしたり、と平たくいえば外交しなくちゃならない。

この手の手法を毛嫌いする人も中にはいるが、自分の写真に感動してくれる人を一人でも増やしたいなら、コレはとてもまっとうなやり方だと思う。

でも本当にそれでいいのか?

本当に純粋に自分の写真を見てもらいたいだけなのか、感動を共有したいだけなのかという批判も一概に否定は出来ない。
自己承認欲求や自己実現欲求を満たすための道具としてSNSやらを使っている、さらには道具として使っていることを隠すための道具として写真を使っているのでは?という話だ。

表では感動の共有などと言っておきながら裏では必死に自己承認欲求を肥やしているというのは確かにきれいとは言い難いが、問題はそこではない。

本当の問題は、自己承認を求める余り、感動した写真ではなく感動させる写真を撮ることに専念してしまっているのではないか?と言うことだ。

そうなると実際どんな写真になるのか?
それは前述した「美しい」風景写真であり、「きれいな」人物写真であり、感動資源として生産、消費されるようになった写真という道具である。

僕は感動資源と化した写真自体を否定する訳じゃない。
画一的な感動資源であろうとその資源は常に求められている。

ただ、僕は言いたい。
ただ自分が感動したい、その感動を共有したいという純粋な気持ちで撮っていた写真が、麻薬的に刺激された自己承認欲求を満たすに連れて、まるで一般受けを狙っているかのように、まるで更に承認欲求を満たす為かのように、画一的でド派手な写真に変わっていくのがそんなに偉いことなのだろうか?

そんな中途半端に*3感動資源と化した写真を撮り続けてもまだなお、この風景に感動してシャッターを…みたいなことを言って許されるのだろうか?
そしてまたそれを持ち上げて、感動した!などと言うことに何の意味があるのだろうか?

本当に感動した瞬間を撮りたいのなら、撮った瞬間の感動を共有したいのなら

余りに他人の評価を求めすぎて自分の価値観を失ってはいけない。
承認欲求を満たす分には構わないが、その欲求はある意味麻薬的である。
それを求めすぎて本来の目的を見失ってしまうのは本末転倒、とても悲しいことではないだろうか。

いいねに頼りすぎてはいけない。
自分の写真を一番初めに評価するのは自分でなきゃいけない。
人気の写真を見るのは真似して自分も人気になるためではなく、そこから新たな表現を学び生かすためだ。

僕のやりたいことは既存の感動を複製する事じゃない。
誰も見たことのない感動を、誰かに伝えることだ。
素晴らしい趣味じゃないか。

伝えたくても伝わらない、その壁を低くするために技術はある。

考えるな感じろ。
喜びを、悲しみを、言葉にできない鬱屈した感情を。
その一枚に全てを込めろ。


壁をぶち壊せ。
芸術は爆発だ


おわり

*1:共犯関係などと言ったけど全く悪いことではなく、これは人が一人一人違っている以上仕方がないことで、これを根本的に解決しようとしたらそれこそサードインパクト起こして補完でもしない限り無理

*2:勿論構図やら露出やら基本的な基準というかルールはあると思うけど

*3:ニーズの把握というのをしっかりとしていないために中途半端にならざるを得ない